こころざし

日々のつぶやきをしるしたブログです

このところ、川上弘美作品にハマっている。

でも、この前に読んだ
『古道具 中野商店』とも、
『これでよろしくて?』とも、
違う雰囲気が『真鶴』には流れていた。

夫と会うために、引き寄せられるように、
なんども真鶴に通う主人公・京。

真鶴を旅する京に「ついてくる」もの。

読者にも、読んでいると、なにかが「ついてくる」感じ。
物語のもつ温度のようなもの。
読了してもしばらくは余韻が残った。

一般的な「オカルト」と一線を画すところは、
京の生活がとても日常的な部分もあるということ。

日常生活、
すべてのものに日が当たっているところで、
今日の献立について考えたりすること。

と相対するものとして、

真鶴での体験

礼(失踪した夫)
ついてくるもの

の2つからなっていて、
京はそのふたつを行ったり来たりしている。

ネタバレになるが、
日常生活にもどる京に、安心した。

オカルトだったら、あからさまに「霊が」「神が」とか、公言して、
そのものを生活の中心に置きたがる。

でも、気配とか、におい、味、音、偶然性、あらゆるものに
「なにか得体の知れない」ところはあるもので、
それをあからさまに公言したり中心に置いたりするのは
人間として無粋だと思う。

なんとなくいい空気。
なんとなく気分がいい。
なんとなく気配がする。

そういう模糊としたもので、私たちの生活はできている。

それをあえて宗教とか神とか霊とか、
名付ける必要はないんだよな、
と思った。

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